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121話 家蜘蛛

 虫は苦手だ。なにを考えているのかわからないし、うぞうぞしているし、節足だし、小さくてつぶつぶした状態で大量に集まっていることもあるし(恐怖心展の話参照)、這い上がってくるし、勇猛果敢にも顔のあたりに飛び掛かってくるし。 でもなぜか家蜘蛛だけは怖くない。というか慣れている。つい今しがたもPCに向かっていたら視界の端に黒い点があって、すわ蚊かと身構えたらちいちゃい蜘蛛でなあんだ、となったがよく考えたらおかしな話だ。理由は明白で、小さい頃から家蜘蛛は大事にするほうがよい、と言われていたからだ。小さい虫とかを捕まえて食べてくれる益虫なので。巣は張るけど。よくキャタピーと名付けて眺めていた。何年にもわたって実家でちいちゃい蜘蛛を見て毎回キャタピーと名付けていたので、きっと何代もキャタピーの名前を襲名していたことだろう。蜘蛛は基本壁を歩いていて自分の方に飛んでこないのも大きい。 慣れとは恐ろしい。でもハリポタとかである巨大蜘蛛に実際会ったらそれはそれでひっくり返るとは思う。家蜘蛛にもまったく緊張しないわけではない。眺めつつ干渉せず共にある。 先ほどの蜘蛛は天井へと登っていき、いつの間にかいなくなっていた。おそらく電灯の中に入っていったのだろう。焼け死なないことを願う。

120話 入眠失敗

 たまに入眠失敗することがある。しっかり疲れていても、起きたのが早くても。布団に入る前に眠くなかったわけでもないのに。今日みたいに。 緩やかな坂を転がっていって、先に見えるあの穴に入るんだろうなーと思って近づいていたのに、何かの拍子でそれをひょいと飛び越えてしまって、あれあれ、とそのまま転がり続けてしまっている感じ。 あまりないけど一度そうなると後が長い。足の火照りが気になってくる。枕がしっくりこない気がしてくる。掛け布団の衣擦れに妙におさまりが悪くなる。 一度水を飲みにいってもいいが、もうすぐ夜が明けそうだ。目は休めたい。記録をやめて目を閉じ、久々に暗い中羊を数えてみることにする。今でもうまくいくだろうか。

119話 こわいもの

 先日の話だが渋谷で恐怖心展いったあとに上野に移動し藝大の学祭に行った。どちらも人がなかなかすごかったが面白かった。 恐怖心展は常にがやがやしてるし並んでいる人も多いためか特に怖くなかったが、展示を見ながら同行者とあれやこれや話すのが楽しかった。怖いものは千差万別で、同じものが怖くても理由や原因は違ったりする。誰もいない中一人でまわったらそれはさすがに結構怖いと思う。 藝祭では神輿や学生の制作物を見た。神輿、立体物でどこからどう見ても逐一画がキマっていて美しいからすごい。立体では鉄の棒?を溶接?して海の入り江の波を表現しているように見えたやつが好きだった。 ちなみに絵の展示棟を見ていたとき、都会の夜景の絵があって表現の仕方はすごくいいなと思ったのだが、絵具でぷつぷつと等間隔でいっぱい置いてある、光る窓を表現している部分を見て、ああ自分はこれが怖いのだなとふと気づいた。不快でもあるけど、恐怖が勝つというか、生理的に受け付けがたい感じがあって鳥肌がたっていた。そういえば何度か見た悪夢の中で「自分の腕がぷつぷつしてきて見ているうちにマグマのようになりどろどろに溶けおちていく」というものがあり、関連するものを感じる。等間隔で細かい立体的なぶつぶつがずらっと並んでいる状態が自分は怖い。先に恐怖心展に行ったおかげでそういう点に鋭敏になっていた気がする。行ってよかった。 帰り際、祭りも片づけに入る中で夕日を浴びながら出店のかき氷を食べた。友人たちもかき氷食べたりソーダ飲んだりしていたので写真を撮った。近くではバイオリンで千本桜が演奏されていて人が集まっていた。地面に落ちる影を眺めていたら溶けたかき氷の欠片が足元に落ちていった。まぶしいくらいに夏の終わりだと思った。

118話 ポテサラ

昼ろくに食べてなかったので主に野菜とタンパク質に飢え、野菜と卵を買って帰った。家にじゃがいもがあるのでポテサラとオムレツにした。 普段疲れて帰ってから料理はしたくないと思ってきていたが、今日はふと「どうせ帰ってぼーっと漫画読んだり動画観てるくらいなら同じ時間で実況聴きながら料理も生成したほうがいいのでは…?」となりやってみたらやっぱり充足感があった。明日以降の食糧貯蓄もできたし。小一時間なので疲れるほどでもないし。じゃがいもは潰したけど。 料理前は順番やら在庫やらを考えるが、いざ手を動かし始めると頭がわりとからっぽになっていい。レシピも特になく、分量もろくに計らない。それがいい。 ポテサラはおろしにんにくを入れるのが好きだ。スパニッシュ。

117話 水と魚

 片方を見て、かつて見た記憶があったもう片方のことだと思ったら全く違うものについて言っていた、ということがあった。モチーフが近しいので。 けど改めて読み返してみたらなんだか共鳴するところもありそうで、だからこそ混同したのかも、と思いその2つの文章をまとめて挙げておく。どちらも好きな文章だ。 また、読み返していて先日観た『教皇選挙』でのローレンスのスピーチを思い出していた。 これは水です。  (原文は こちら 。最初に読んだ和訳が好きだったのでそれを貼っている) だいぶ前にTwitterで流れてきた気がする。好きなところを一部抜粋(でも全体、特にスーパーの話を含めて読んだほうがいい)。 先の話のポイントは何か。それは、もう少し謙虚になること、自分の存在や確信していることを見つめ直すことこそが、「自分の頭で考えること」の意味するところではないでしょうか。今までぼくが根拠もなく自動的に正しいと信じてきたことは、大方間違っていました。 僕は、憐憫だの思いやりだのいわゆる人徳だのについて説教するつもりはありません。これは人徳の問題ではありません。先天的な自己中心的なデフォルト設定をいかに抜け出すかという問題です。 神秘的な一体感ってのは違うかもしれませんが、唯一無二のシンジツ とは、「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。「適応力がある」という表現の意味です。何に意味があって何に意味がないのか自分で意識的に決められること。何を信じるか自分で決められること。 その中でも特に大事な自由が、まわりに注意を払い、意識的にものを見つめ、自制心を持つことで得られる自由。誰にも見えないところで、毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲をはらい生きる自由。   シンジツとは、本当の教育の本当の価値のことです。それは知識とはほとんど関係のないもので、たった一つのコトに集約されます。限りなくリアルで、根本的で、でも我々の目にはなかなか見えず、絶えず自分に言い聞かせなくてはいけないコト。 これは水です。   違和感を抱いている人に聞け! こちらを今日見た。文章好きだったのでエッセイ読んでみようかな。  では、どういう人の認識が深かったかというと、沖縄で暮らしながらも、完全にはなじめず、ずっ...