117話 水と魚
片方を見て、かつて見た記憶があったもう片方のことだと思ったら全く違うものについて言っていた、ということがあった。モチーフが近しいので。
けど改めて読み返してみたらなんだか共鳴するところもありそうで、だからこそ混同したのかも、と思いその2つの文章をまとめて挙げておく。どちらも好きな文章だ。
また、読み返していて先日観た『教皇選挙』でのローレンスのスピーチを思い出していた。
これは水です。 (原文はこちら。最初に読んだ和訳が好きだったのでそれを貼っている)
だいぶ前にTwitterで流れてきた気がする。好きなところを一部抜粋(でも全体、特にスーパーの話を含めて読んだほうがいい)。
先の話のポイントは何か。それは、もう少し謙虚になること、自分の存在や確信していることを見つめ直すことこそが、「自分の頭で考えること」の意味するところではないでしょうか。今までぼくが根拠もなく自動的に正しいと信じてきたことは、大方間違っていました。
僕は、憐憫だの思いやりだのいわゆる人徳だのについて説教するつもりはありません。これは人徳の問題ではありません。先天的な自己中心的なデフォルト設定をいかに抜け出すかという問題です。
神秘的な一体感ってのは違うかもしれませんが、唯一無二のシンジツとは、「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。「適応力がある」という表現の意味です。何に意味があって何に意味がないのか自分で意識的に決められること。何を信じるか自分で決められること。
その中でも特に大事な自由が、まわりに注意を払い、意識的にものを見つめ、自制心を持つことで得られる自由。誰にも見えないところで、毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲をはらい生きる自由。シンジツとは、本当の教育の本当の価値のことです。それは知識とはほとんど関係のないもので、たった一つのコトに集約されます。限りなくリアルで、根本的で、でも我々の目にはなかなか見えず、絶えず自分に言い聞かせなくてはいけないコト。
これは水です。
こちらを今日見た。文章好きだったのでエッセイ読んでみようかな。
では、どういう人の認識が深かったかというと、沖縄で暮らしながらも、完全にはなじめず、ずっと違和感を抱いている人たちだ。
これはもちろん、私の個人的な感想なので、私の勘違いかもしれない。
しかし、その水にしっくりなじめる魚は、その水のことを考えなくなる。その水になじめない魚だけが、その水について考え続けるのだ。
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